西福寺の沿革





1:親鸞聖人の絵像
浄土真宗の開祖親鸞聖人は、晩年関東の布教を終え、生まれ故郷の京都に帰られます。


2:柳堂
都へお帰りになる途上、三河の柳堂(太子堂)に留まられ説法をされました。


3:河野18門徒
柳堂のご法縁により、18の寺が浄土真宗の寺院として創建又は天台宗から転宗しました。
この18ヶ寺は『河野18門徒』と呼ばれる事になりました。


4:系図
当時、天台宗の寺院であった当院は、当代住職の春道により、仁治元年(1240年)浄土真宗の寺院となりました。


5:蓮如上人絵像
時代は下り、中興の祖蓮如上人は、当時衰退していた河野の復興をお願い、法物を下付されました。


6:左上の御影
法物の一つは『左上の御影』といわれる親鸞聖人の絵像です。念珠を握っておられる両手の位置が左手が上になっており、珍しい御影です。


7:四幅の御絵伝
これは、親鸞聖人の生涯が描かれている『四幅の御絵伝』です。これらの2点は岐阜県の重要文化財に指定されています。


8:黄金到来の御文
戦国時代、織田信長と本願寺は戦争をしました。『石山の合戦』です。当時、河野の寺院は大阪に行って参戦したり、黄金を届け命がけで支援をしました。左は顕如上人から頂いたお礼状です。


9:河野六坊誕生
1603年 東西分裂の時期を経て、河野法物は浄土真宗本願寺派の六ヶ寺によってお守りする様になりました。今日まで続いております。


10:第20世住職 元空
明治24年 当院20代元空住職の時に、濃尾震災によって寺は倒壊しました。寺の再建が出来ず、茅葺の本堂で凌ぎました。


11:第21世住職 正意
大正6年 21代正意住職の時に、26年ぶりに本堂が再建されます。
昭和14年寂
【辞世の句】    送られて 今かえりゆく 秋の月 


12:西福寺復元図
当時の西福寺復元図です。
「花の寺」と名づけられ、境内には1年中どこかで花が咲いていたそうです。


13:第22世住職 良南
昭和19年 22代良南住職が戦死、当時15歳の博司が、23代を継ぐことになります。


14:空襲による焼け野原
昭和20年7月9日、岐阜空襲によって西福寺は全焼します。ご本尊は命がけでお守りしました。


15:西福寺復興
昭和29年 ご門徒及び有縁の皆様の支えにより、西福寺本堂が再建されました。この年、仏の子どもを育てるという主旨で、こばと幼稚園もこの本堂で始めました。


16:西福寺750年記念事業
平成2年 西福寺は創建750年を迎え、記念事業として内陣の荘厳をいたしました。


17:蓮如上人500回大遠忌法要
平成15年 蓮如上人500回大遠忌法要が行われました。住職継職法要も併せて行なわれ、現在の第24代顕英住職になりました。


18:蓮如上人500回大遠忌記念事業
記念事業として、瓦の葺き替え(銅板にしました)と本堂の耐震補強をしました。


19:第23世住職 寂
15歳で西福寺を継職。本堂を再建し、幼稚園を創設しました。
岐阜県仏教会会長、岐阜県私立幼稚園連合会会長、聖徳学園理事長を歴任しました。


20:親鸞聖人750回大遠忌 鐘楼の落慶法要
平成26年 親鸞聖人750回大遠忌法要が行なわれました。記念事業として鐘楼、山門の建立がされました。


21:親鸞聖人750回大遠忌法要
内陣の余間も整備され、法要が盛大に厳修されました。


22:旱天(かんてん)の慈雨(じう)
当日は、雨でした。日照り続きの土地に降る雨の事を『旱天の慈雨』といいます。「待ち望んでいた事が実現する」という意味もあります。
この日は西福寺にとって、完全復興の日、まさに旱天の慈雨でした。


23:梵鐘の鋳出文字
漢詩の書き下し
親鸞聖人の750回大遠忌という勝(すぐ)れた縁に遇(あ)わせていただき、二十四世当代住職は、門徒の皆様、有縁の人々と共に、山門及び鐘楼を建立し、両余間に七高僧・聖徳太子をお迎えする 先代と歴代の住職の念願である西福寺の復興此に完遂する
西福寺  第24代住職  釋 顕英